付ける名前のないブログ

備忘録 不定期

純粋だったはずの少年は、なぜ陰キャの道を歩んだか

最初の挨拶記事を書いて、いきなり2件目の記事…というのも節操がないなと自分でも思うのですが…

昔からあまり触れてこなかった部分なのと、今ならなんか書けそうな気がする、今のうちに書いとけ、という動機で書く内容なので、どうかお許しください。

 

 

記事名の通り、私は典型的な陰キャです。そしてオタクです。

世の中を見渡してみると、それなりに社会に適応し、人並みの生活を送り、適度に運動し、普通に気の合う友達を作り、グループで旅行に行ったりし、普通に結婚し、普通に家庭を持って生活している人が多いと思います。

少子高齢化が叫ばれていますが、それでもそういう「普通の人」はやっぱり多数派。

日本は民主主義国家であることもあり、基本的に「多数派」「強い者」が力を持ちます。

結果として私のような陰キャ㋔㋟㋗は社会から軽んじられ、人権を与えられずに日陰で目立たず細々とジメジメ生きるのが宿命です。

 

そんな陰キャ、なりたくてなる人はそんなにいないと思います。

おそらく「なるべくしてなった」人が殆どだと思います。

今回は、「何故私が陰キャになったか」ということを整理してみたいなと思ったので、幼少期のことに触れて書き綴ってみます。

 

 

未就学・幼稚園児の頃に遡ります。

私は昔、どこにでもいるような純粋で前向きで元気な子供でした。

子供だから当然かもしれませんが、本当に日々心から楽しく生きていたように記憶していますし、悩みなんてなかったと思います。

幼稚園児の頃はやんちゃ放題だったので、仲良しの友達と結託して、いろいろと悪さをしては幼稚園の先生に怒られ、園庭に締め出されたりケツを叩かれたりしていました。

親にも何度かマンションのベランダに放り出されたり、ケツを叩かれたりして大泣きしていたような記憶があります。

今同じことをしたら「体罰だ」「虐待だ」なんて叫ばれそうな気がしますが、今思えばそれは必要な教育だったと思います。

人を傷つけるような真似をしたら体罰は必要。何を言われてもこれは私の持論です。

「悪いことをしたら怒られるし、罰を受ける」

「優しい人間になれ」

「自分がされて嫌なことを人にするな」

「人を傷つける真似だけは絶対にしてはいけない」

実際に私の周りの大人からは、常にこの辺りのことを言い聞かせられていました。

ただ、高望みはされなかったように思います。やりたいことはできる範囲でさせてもらえたと思います。いわゆる毒親持ちの人は本当に不憫だと思いますが、私はその点である程度親には恵まれた人生だったと思っています。

結果として、子供の頃の私は周囲の大人を疑うことなく「周りの大人が言うことは絶対正しい」という価値観を持ち、正義感のある「いい子」として育っていきました。

幼稚園の文集や、小学校1年生くらいの先生からの評価にも、実際に「本当に優しくていい子」という旨のことが記されていました。誇らしい話。

幼稚園の子供たちは、本当に「みんななかよし」でした。それが周りの子たちに恵まれていたからなのか、先生や個々の親の指導が行き届いていたのか、今となっては分かりません。ですが、その頃の私は自分の生き方を質すようなことはありませんでした。

 

転機は小学校入学。

私は小学校入学直前の2か月くらい、のちに14年近く住み続けることとなる滋賀県某所に引っ越し、そのまま小学校生活をスタートさせました。

ここで大きく周りの同級生たちが変わります

私の住んでいたところは新興住宅地だったので、同じように小学校入学を機に引っ越してきた子供たちが大多数を占めています。つまり、幼稚園の2か月で仲良くなった友達に加え、さらに多くの同級生と生活を共にすることになりました。

この頃から、周りの同級生たちが「みんななかよし」ではなくなってきます

今思えば、多分このくらいの子供たちは少しずつ自我が芽生え、1人1人での感性のすれ違いも出てくるのだと思います。しかし、皆と仲良くできると信じて疑わない、正義感にあふれたヒーロー気取り、ピカピカの1年生である逸Pくんは、そんなことは微塵も考慮するはずがありません

結果、何気ない発言に対し、同級生から冷たい反応が返ってくることが増えます。周りが仲違いしているのも見かけます。子供ですし、正義感もありましたから、私はそれに対し律儀に馬鹿正直に反応し、結果として度々喧嘩をするようになります。

ここで問題が生じます。

私は不運なことに、小学生の中では力が弱い方で、しかも運動音痴でした。全くスポーツをやっていなかったわけではなく、小学校低学年の頃は少しサッカーもやっていたのですが、あまり熱心に取り組んでいたわけではなく、さほど上達もしませんでした。

結果として、力の弱い私は、喧嘩をしても負けます。しかも「いい子」心理が働いてしまい、武器を使ったり急所を狙うような一発で喧嘩に勝てるような致命傷を与える攻撃は殆どできませんでした

体育や運動会で結果を出せない私は、周りから冷たい言葉を浴びせられます

そしてさらにタチが悪いのが、私はかなり泣き虫でした。思い通りにいかなかったり、感情が昂るとすぐ泣いてしまう子供だったと思います。情けない話ですが、今でも感情が昂ったときや、何かに負けて悔し涙を人前で見せてしまう機会は他の人より多いと思います。要するに弱虫なのです。

(今思えば幼稚園児は、どちらかが泣くと先生が仲裁して「泣かせた奴が悪い」ということになることが多かったと思います。私はそれに甘えて「泣くことは勝つための自己防衛」として刷り込まれてしまっていたのかもしれません)

こういう子供がどうなるかは、陰キャの方は大体察しがつくと思いますが、さらに周りからの風当たりが厳しくなります。やがて大人からも「お前も悪い!」「そんなことで泣くな!」と厳しい言葉を浴びせられる機会が出てきます。

「なんで自分は正しいと思うことを言ってるのに、こんな酷いことを言われないといけないの?」

「なんで自分は、人が嫌がる、酷いことをする同級生に喧嘩で負けて泣かされてしまうの?」

「負けっぱなし」の当時の私は、こんな感じのことを考えていました。

 

そして、辻褄の合わないその疑問に苛まれる中、自分の中である時こんな考えが出ました。

「自分なんて、どうせ周りには分かってもらえない…」

「自分が何をやっても、どうせうまくいくわけがない…」

 

純粋で前向きで元気な逸Pくんは、ここで死んでしまいました。

皮肉なことに(力が弱かったという面もあるとはいえ)「いい子」として生きていたことも仇となり、ここに私の陰キャ人生の原点である、マイナス思考逸Pくんが生まれたわけです。

逆にここで私に「勝った強い同級生」たちは、そのまま陽キャとしての人生を歩んでいった人たちが大多数だったように思います。

 

そこからの私は、徹底的に馬の合わない人を避け、何か困難なことに直面しても「どうせできるわけがない」と逃げ出して自分を守り頑張らない、マイナス思考・悲観的な捻くれ者と化しました。

常に楽な方へ楽な方へ、素でいて馬の合う、自分を非難しない同級生としか関わらないようにしていました。

加えて小学生特有の「女子と仲良くしてる奴はカッコ悪い」という考えを信仰し、それに反して冷やかされることを嫌い、女子には徹底的に冷たくツンツン接し、同級生の女子の大半から嫌悪される存在になりました。

結果として、自分の居心地のいい殻に閉じこもり、同級生の精神的な成長から、知らず知らずのうちに取り残されていきました。

(ただ唯一、ハッキリと「いじめられなかった」ことだけはラッキーでした。ただの幸運だと思います。オタクたちの話を聞いていると、やっぱり似たような例だといじめられていたケースが多いので…)

 

こうして、「世の中のスタンダード」たり得る陽キャや女子との交流を絶った私に、もはや世俗に戻る術はなく、その後の人生で陰キャとしての地位を確かなものにしていくこととなったのです。

 

これが良かったのか悪かったのか、今でも答えは出ていませんが…

こうして、私が自己防衛に徹する陰キャとしての性格を確かなものにしたことは、のちに私の人生を良くも悪くも大きく左右することになりますが、それはまた別の機会に。